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七海警衛隊国家安全局の参入
1975年7月31日、蒋経国が側近警備体制を国家安全の一環として取り入れた。そして士林官邸の南側に「連合警衛安全指揮部(joint Guardforce and Security Command, 略して連指部)」が設置され、組織的に「国家安全局」に所属されるため、国家安全局長がその司令官も兼任しているが、実際の業務は副司令官が行なうとされている。
1975年に元「総統府警衛大隊」が「国防部警衛隊」に改編された時に、蒋経国の官邸警護にあたる「七海警衛室」の採用試験も同時に行われた。
これを機に警衛隊隊員が猛勉強し、一部が「憲兵学校専修班(一年の憲兵士官コース)」に合格し、士官幹部の資格を有するようになった。
「警衛隊」の幹部として任用され、さらに「警務組」の「警務官」、「警衛組」の「警衛官」に採用され十年以上の経歴を得ると、
「侍衛官」へ転任することができ、最高は上校(大佐)まで昇進することも可能とされる。これをきっかけに「連合警衛安全指揮部」
における警護系の憲兵出身者が大多数を占めるようになった。
1975年まで「総統府警衛大隊」の金門島出身の隊員選抜はすでに12回を行なっていた。その後「国防部警衛大隊」から、同じように金門島より募集したが、今度は直接募集し、一回60人で、採用後に下士官養成学校による一年間の代行訓練をさせて「警衛大隊」に配属するような方法で行なわれている。さらに「警衛大隊」による3ヶ月の実務訓練を受けた後に憲兵下士(憲兵三等軍曹)として就任するに変更した。
国防部警衛大隊「国防部警衛大隊」は4つの区隊、計25個の分隊から構成される。ひとつの区隊には4つの分隊を有し、400人あまりから編成され、その三分の二は金門島出身である。4つの区隊の中に、第1区隊は「内衛区隊」とされ、常に「内衛組(班)」、「警(備)安(全)機動組(班)」と一緒に行動する。蒋経国が官邸にいる時は待機し、外出する時には蒋経国の50~100メートルのゾーンで警備している。第2区隊は官邸前大通りの道路警備と、第4区隊は官邸脇門警備とされている。官邸正門には「警安機動組」の当直士官が置かれ、これを境目に内側が「警安組」、外側は「内衛区」それぞれの責任区域とされている。なお、この当直士官は「陸軍軍官学校正期生(陸軍士官学校の4年コース)」または「政治作戦学校」出身の士官幹部が担当することとされている。 1975年からの後継 大統領は厳家淦(げんかかん、蒋介 石時代の副大統領であった)であり、重慶南路通りの官邸に「重慶警衛室」が設けられていた。1978年5月20日に蒋経国が統治体制を整えて、正式に大統領に就任した。そこから士林官邸の第3区隊が「七海警衛室」に編入され、二区隊から5つ区隊(内衛区隊を含む)まで拡大された。 1978年に警衛隊長を就任した丁振東憲兵上校(大佐)が毎月射撃テストを行い、成績優秀な隊員を「内衛区隊」に配置し、1982年から彼の提案により、毎年「陸軍軍官学校」と「政治作戦学校」(ともに4年制コース)からそれぞれ2名の卒業生を「警衛隊」の幹部として配属するようになった。憲兵司令部警衛大隊1988年に蒋経国が死去し、副大統領であった李登輝氏が後継大統領として就任したが、「警衛隊」全員が蒋経国の殯所に配置されたため、 李登輝が官邸に定員125名の「大安警衛室」の警護空白を警官隊から取り入れた。これを機に警察関係も側近警護システムに組み込まれるようになった。 1994年に「連合警衛安全指揮部」が「国家安全局特種勤務指揮中心(国家安全局特種勤務センター、略して国安局特勤中心または特勤中心)」に改編され、国の安全の一つと見なされている。「国防部警衛大隊」の人員募集は憲兵司令部が代行し、国家安全局は事後の「再審」をし、そして憲兵学校で教育訓練を受け、憲兵として「警衛大隊」に配属される。このため、2005年から「国防部警衛大隊」が「憲兵司令部警衛大隊」に改名されている。側近警護人員の進路とその影響力40数年間に金門島の下士官養成学校より側近警護憲兵隊である「内衛憲兵」になった人数は延べ三千人弱とされ、契約期間を延長し「警衛隊」に残った隊員のほとんどは憲兵学校士官課程(一年の専修班コース)へ送られ、憲兵士官の資格を有するようになった。結局、官邸の側近警護システムの中に、憲兵出身でない者は、「特種警衛士」に選ばれ他の陸軍兵科学校へ特訓を受けた者と、官邸正門の当直士官のみに限られている。
1980年代に入ると、側近警護憲兵隊将校が大量に「連合警衛安全指揮部」の重要ポストを占めている。その結果で今もなお、「総統府侍衛室」、国家安全局特種勤務指揮センターや、各警察組織の連絡官など、ほとんどは金門島出身の側近警護憲兵隊から構成された。やがて「金門派憲兵=総統の親衛隊」というイメージが世の中に定着してきた。また、大統領が各地を視察する時、各地の警察署が「国家安全局特種勤務センター」の「安警組」に指示を受け、評価されるため、側近警護憲兵隊は依然として、治安組織の中にある程度の影響力をもっている。
しかし側近警護憲兵隊には上位のポストが限られ、なおかつ人事異動に外部の軍職へ回されないため、ほとんどの士官幹部は中校(中佐)、上校(大佐)で除隊され、
将軍まで昇進する者はほんのわずかである。中層幹部(佐官)除隊後の進路は、主に各国公立施設の警備関係である。
例えば中正記念堂の「警衛組」には
、「七海警衛室」のOBの再就職のところであった。下級幹部(尉官)や一般隊員には、「警察官転任特別採用試験」を通って、法廷の当直警備、
犯人の押送及び法廷の秩序を維持するための「法警(派出警察官)」に再就職したことが挙げられる。
1994年に「国家安全局特種勤務センター」の設立当時には定員264名および警衛隊300名、計564名の枠が設けられ、李登輝の「大安」
、李元簇(りげんぞく、
当時の副大統領)の「崇実」、故蒋介石の「士林」、故蒋経国の「七海」など4つの官邸警衛室に「警衛区隊」が配置されていた。1996年に台湾史上初めての大統領選挙が行われ、そこから四年に一度となったこの選挙戦には、与野党の大統領・副大統領の立候補およびその家族に側近警護の企画や人員の提供は「国家安全局特種勤務センター」の責任とされている。当初蒋介石一族のために作った総統親衛隊の体制には現状に追いつかない状態となり、やむを得ずに警察関係者、主に「保安警察第6総隊第1警官隊(保6総隊警官隊)」の大量導入がなされている。しかしこれらの警察官には一時派遣のカタチが多く、陳水扁大統領時代にも側近警護体制の主導権を警察関係に移行しようと試みたが、「国家安全局特種勤務センター」における金門島出身の総統憲兵隊は依然として2/3の割合を占めている。現行規定によると、現職の大統領副大統領の「官邸警衛室」には定員が125人と、引退した大統領には20人の編制が定められている。
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